できてる人にはあたりまえのことですが。
ソロでの個人練習、作曲などは基本的に1人でやるもので スケジュールが空いてる時は殆どその時間が当てられるのですが、 自分だけで決めたもので、誰かとの約束、 とかいうわけではないので、つい他の予定が入ってしまうと ソロの予定時間を削って他の時間に当ててしまう。 結果、ソロ活動の仕事がすすまない。 ソロも一番大事な活動の一つなので、コレじゃいかんな、と思いまして。 ちゃんと時間を確保して、やることやらないといけませんね。 音楽のマーケティング、というやりとりを少し友人としたので思い出した。 この本。読みなおしてみようかな。 難しいフレーズだとかを練習して、何度やっても出来なくて、いったん諦めて、簡単なものに挑戦すると、やはりすんなり出来なくて。 でもこちらは少し練習すると出来そうだということでなんとかクリア。 で難しいヤツに再挑戦。 すると、不思議なことに前よりも少しだけスムーズに手が動く。 ということがあって、 ふと思い出した。 楽器の練習も物理や数学の勉強も同じだな、と。 難しいと感じたら、 自分が理解してると思ってる事まで一旦戻って再確認。 意外にあやふやな点、忘れてる点が沢山あったりして。 何事も基本は同じなのかも。 基本的なところに大事な何かが隠れてる。 英語でも、一番最初に習うような簡単な単語が一番扱いが難しかったりする。 かといって、最初から基本ばかりやってても気付かない事も多いので、行ったり来たりの繰り返し。 ジャズについて語れる程、多くを知らないし、
演奏についてはなんちゃってジャズのアドリブで 時々会心の一撃が出るくらいのレベルなのですが、 色々勉強してて思うこと。 これはアドリブだけじゃなくて、作曲その他色々にも言えそうだけど、 将棋で最善最良の一手を、とか、より美しい棋譜を求め続けるのにも似ているのかなぁ、 と、将棋もコレまでの歴史のなかであらゆる手が研究しつくされてきて、 もうコレ以上新しい棋譜や手は生まれないんじゃないか、と言われているけど 現在プロの方々を始め、その「まだ見ぬ棋譜」を求めて日々精進されています。 音楽もそうなのかなぁ、と。 あらゆるメロディやリズムパターン、ハーモニーなどのアイデア、 出尽くした、と何年おきに誰かが言ってます。 でも、新しい音楽を作る試みは止まらない。 誰も聞いたことのないフレーズ、メロディ、音楽…。 将棋も囲碁もチェスも音楽も、やってることは変わらないのかもしれないなぁ。 一種のサイエンスですね。 純粋な数学もそんな感じかなぁ。 ※注) 偉そうに書いてますが、囲碁は「ヒカルの碁」を全巻読破した程度です。 将棋は羽生さんの本を数冊読んだ程度です(笑)あしからず。 「楽器を弾く事が楽しい」
もちろん、練習してもなかなか出来るようにならなかったり、 本番ではいつも間違えて満点の演奏にならない、 といってフラストレーションがたまることはありますが、 基本的にはそれ含め「楽しい」です。 機械的な練習も、スポーツだと思えば、楽しい(笑) 昔、某ロック/ポップス系の音楽専門学校に行こうと考えていた時期があり、 無料体験レッスンまで受けに行ったのですが…。 そこの講師に「誰々みたいに弾けりゃ苦労しないよね〜・・・」 とボヤキのようなことを言われ…。 意気消沈。それから少し悩みましたが結局その学校には行かず。 そのギタリストの方は、本当に音楽が好きだったのかなぁ? と10年以上たった今ふと思い出しました。 その後、色々迷いながら、遠回りしながら進んでます。 学校行ってればそれは違う人生になってたかもしれないですが… 自分がレッスンしてて、演奏してて、 「楽しそう」「楽しい」といってもらえるのが一番いいなぁ。 と、思いました。 楽しければ勝手に練習したくなるし、演奏も聞きたくなる。 自分は俯いて演奏をする癖が抜けませんが、 シューゲイザーのように下を向いて演奏していても楽しいのです。 しかめっつらしてても、楽しいです。きっと。 楽しさを伝えるには、よく言われることですが、 自分が楽しむ、これに尽きると思います。 楽しいと思えないことを無理やり楽しむのとは少し違うと思いますけどね。 最近、滑舌改善とほっぺの膨らみ改善のため、顔の筋肉をひたすら出来る限り早く動かす(あいうえお等の形をつくって)という練習をお風呂などでやっています。
ギターの速弾き練習のごとく、ただただ顔の筋肉を速く動かしています。 数十回繰り返して、疲れたらその日は終了。 まだまだですが、すこしずつ話すときにつっかえる感じが減ってきました。 小顔効果もあり、体重減ってないのに痩せた?と聞かれることもありました。 顔の筋肉が衰えると、睡眠時に口呼吸になる原因にもなるらしいので、 ちょっと風邪ひきにくくなったような? 滑舌が悪くなったのは、 思春期に極端に人と話さなくなった時期があることの影響が尾を弾いているわけですが…。 こう、どもる時の感覚は、楽器演奏でリズムが走ってしまう時の感覚に似てますね。 複雑なフレーズが出てきたら、其の前後でテンポが変わってしまうという。 滑舌が悪い上に早口になってしまい、意図しない方向で言葉が伝わってしまったり。 表現するのは其の次の話で、まずは思い通りに筋肉が動いてくれないと話になりません。 筋肉を動かすことがイメージできると、自然と音が聞こえてきたりするもので、不思議な感じですね。 英語だとlとrや s と th の違い、中国語で言うと ku、とcu、hu と fu の聞き分けを練習するのにも似てます。 ただ耳を凝らしても聞こえないんだけど、とりあえず、筋肉を動かして練習してみると 少しずつ聞き分けができるようになります。 人体は不思議ですね。 昨日は1年半前から通ってる「藤井ギター教室」の
クラシックギター発表会に参加しました。 選んだ曲はバッハのフーガ BWM1000でした。 ミスはいくらかしたものの、一応暗譜で弾き通しました。 通常のライブ活動やら仕事やら子育てetc.やらなんやらしながらで、 ほんとに暗譜すら出来るのか? と最初は思いましたが、やればなんとかなるもんですね。 (と、いうことを確かめるためにやってたところもありますが) 去年もFBには同じこと書いたかもしれませんが、教会で生音で弾くギターの 響きはとても心地いいです。 習ってるクラシックギターと 今メインでやってるのポップス/ロック系ギターと どう融合するのかまだ何も見えませんが、 (というか、とりあえず今は興味の赴くままやってますが) まぁ、そのうちカチンとスイッチが入るでしょう。 弾き方や音楽に対する向き合い方は少しずつ変化しているのを感じます。 柔らかいと自負していた自分の頭も予想以上に固くなっていたのを気づけた点は良かった。 読譜力も2年前とは段違い(当社比)です。 今後、音楽的に、なにかうまく組み合わせることができたらいいな、という意味です。 しかし、 あまり、役に立つか立たないかの観点でで勉強を選びすぎると楽しくなくなります。 時にはそういう判断も必要だと思いますが。 何かひらめくまでは、興味の赴くままいきたいです。 99%のなんとかとよく言いますが、 確かに、 膨大な数の素振り、 いろんなパターンの素振りを繰り返すうちに見えてきたり、気付いたりしたことが基になって、それがある確率で別のなにかと結びつくときに起きること、のようなものなのかな、と実感しつつある。 素振りに例えたけど、 沢山の人と会うだとか、 沢山のラーメン屋の味を研究するだとか、 ひたすらスライムを倒すでもよい。 とにかく、データを沢山集めること。 それが意識的なり無意識的なり、何らかの方法で精製されて出てくるのかなぁ、と。 と、いうわけで、自分のレベル上げをひたすら続けたいと思います。 だんだんレベルが上がりにくくなるから、大変だけど、新しい事が出来るようになった時はやはり嬉しい。 ここ最近、というかPCを仕事で使うようになってから(22〜3歳くらいから)
結構な感じでドライアイ、疲れ目との戦いを行っている。 実際に近視というか、視力は下がっているのかもしれないけど、 その日の調子によって良い、悪いがかなりはっきり分かれる。 クリアに見える日は、1.0以上(だいたい)は有るような気もするし、 疲れが取れない日はメガネ必要かもと思うくらい。 ただ、自分の感覚と、眼科を受診した時の感覚が何となく違う。 「近視は進行するばかり、または現状維持でなおりません」 とよく言われるのですが、自分の場合は ・ドライアイで見えにくい ・目の周りの筋肉が衰えている、または硬直していて見えにくい という感じがする。 実際、ディスプレイをほとんど眺めなかった日の次の日や、 眼球またはその周辺の顔の筋肉を良く動かした後などは、 見え方がかなりクリアになっている。 というわけで、初期の近視は適切なマッサージや然るべき場所の筋トレなどで 治るような気がしている。素人考えかも知れないけど。 専門家でないので、どこをどういう風にやるのかは説明できないが…。 10代の頃、よく眼球をくるくる回していたのだけど(ひまつぶしに) その当時の回り方と、現在の眼球のまわり方のスムーズ具合が違う。 当然、年を取れば各器官は消耗して機能が衰えていくのだろうけど、 自分の努力で何とか出来ることがあるのならやっておきたいな、と思う。 「俺は誰にも言えない情報を知ってる!」
と皆に言いふらす人がいたり、本が出版されたりしてますが、 (発売禁止になったりすると箔がつく) 「誰にも言ってはいけない情報」がそんなに簡単に漏れてちゃまずいですよね… 本当に誰にも言えない情報は何十にも鍵がかけられ、我々には 手の届かないところにあるはずだし…。 「これはココだけの話よ」が全然ここだけではないことによく似ているような。 どうも…。 「これが世界の真実、ある一族が世界を牛耳ってる」などというのは 「神様が全てをコントロール」している と同じくらいの感じで捉えておけばいいのでしょうか。 例えそれが仮に本当だったとしても 自分たちにはどうしようも出来ないですよね。 神に代わって自分が何か支配しようと思っている人は別ですが(笑) 「結局自分たち庶民はいくら頑張っても、全て奴らの手のひらの上なんだ」 と思って無気力になる人も増えるかもしれないですね。 神様の話と似ているものがあるようなないような内容な。 あぁ、そうなんだ!と100%真に受けて右に左に思考を 簡単に揺さぶられることの方が問題かな、と思っています。 SNSでよく拡散される一部のニュースも同じ。 全てがウソでは無く、 真実の一部も含まれているのかな、と思いますけどね。 (だから皆信じてしまう) 自分で考えろ!といわれ、「ハイ考えます!」 と二つ返事でよく考えずに答えることの矛盾。 いや、よく考えることは大事だとは思いますが。 僕も反射神経的にいろんなことを信じてしまうことがあります。 自分の思っている事に擦り寄るような考えは信じてしまいたい(こうあってほしいと思いたい)ようです。 でも時間が経つと真反対の意見を唱える人も現れたりして、 誰が本当の事を言っているのかわからなくなりますよね。。。 ある意見に対して、反対意見も含めて色々情報収集して、総合的に判断することが大事かな〜と。 |
日々、ギターや音楽に関して思うこと、仮説、妄想などをつらつらと書き連ねて行く予定です。
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